Global Life Studies

お役立ちワークショップ

自分探し塾

参加者の声

応援メッセージ

GLSフォーラム

GLSについて

Pacific Gateway

PG日本語ホームページ


GLSフォーラム

2.21.2007

チャンスを引き寄せる力 ヤジマ ミツアキさん


活躍する卒業生
矢島光昭さん
BLAST RADIUShttp://www.blastradius.com/デザイナー
ステイタス: 移民
PG在学期間:1998年2月-12月
履修プログラム:ESL(Elementary-Advanced)

イエールタウンにオフィスを構えるウェブデザイン会社で、NIKEジョーダンブランドの専属デザイナーとして働く矢島光昭さん。任天堂のNorth America バージョンも手がけるこの会社で働く毎日は、「すごく楽しい。自分自身が楽しんで仕事をして、それが人に喜ばれ、カナディアンの同僚からも認めてもらえる」といきいきした表情で語る。そんな矢島さんのここに至るまでのあしあとをたどってみよう。

経済学部を卒業し、周りが銀行や商社に就職する中で、矢島さんが選んだのはフィットネスクラブのスポーツインストラクター。水泳が好きで、スーツを着たくなかったから選んだという理由がおもしろい。だが、4年が過ぎた時、「この仕事は肉体的に限界がある」と先が見え始める。だからといって一体自分が何をしたらいいのかわからない。 ちょうどその頃、友達に連れられて遊びに行った横須加の米軍基地で、その自由な雰囲気に魅せられる。楽しそうに英語で会話する友達がまぶしく、北米のリラックスした雰囲気に対する憧れが膨らんだ。英語を身につけておくと仕事の幅も広がるだろうという考えに、現実逃避も加わって26歳でバンクーバーへ。

ところがどっこい、それまでの矢島さん、英語は大の苦手であった。バンクーバーでの留学生活は、Pacific Gatewayのエレメンタリーのクラスにてそのスタートを切る。 「自分のお金で来たので後がない。何もなしでは帰れない」 そう聞くと悲壮感が漂っていたようだが、「毎日がすごく充実してました。日本にいたときは、ここまでのプレッシャーを感じたことがなかったので、逆にいい刺激でした」と笑って語る。周りにもそういう人達が2,3人いたので、彼らとともに学校外でも英語で通した。学校がEnglish policyを持っていただけでなく、自分自身もEnglish policyを貫いた。 「それ以外に方法が見つからなかったんです。今考えると“なんだ、こいつ!?”という感じですが、当時はすごく必死。 でもそこまでやっててよかったと今思います」 そういうふうにしていた友達も、現在、英語を生かした仕事で活躍しているという。

PGを選んだ理由を尋ねると、「行く前から日本のエージェントから“ここはいい学校だけど、きびしいよ”と聞いてたんです。きびしいところへ行きたかったので」  そういう強い意志のもと、アドバンスまで登り詰めた。
その後はwritingを鍛えたいとUBCのESLのWriting courseに1ターム3ヶ月通う。  「書かされる量が半端じゃなかった」というくらいwritingだけに集中した時を過ごす。
次のステップを考えていたころ、たまたま遊びに行った友達の家で、3Dのソフトウェアを見て、「これをやりたい!」とひらめく。今まで平面でしかとらえていなかったデザインの幅が、3Dを駆使することで広がっていくおもしろさを知った。すぐさま、少人数制のアニメーションの学校を見つけ、合格条件のTOEFLのスコアを2回目でクリア。クラスメートは半分カナディアンという中、その学校初の日本人の学生となった。
「最初の週が大変でした。全然授業の内容が理解できませんでした。ぶっちゃけた話、どうやってコンピュータを起動させていいかもわからなかったんです。“こんな人入れていいのかな、この学校”と自分でも思ってました」 次第にペースをつかみ、学校に泊まり込みで課題の制作活動に励む1年間を過ごす。

卒業後は、デモリールを携え、面接までたどりつくものの、ビザがないというだけで断られる厳しい現実に直面する。カナダで働くということは、カナディアンが優先されるのは仕方のないことだが、どうしても一回カナダで働いてみたかった。くやしさを噛みしめながら、とりあえず日本へ帰国し、ゲーム会社のデザイナーとして就職。同時に移民の申請を行った。ゲーム関係にはさほど興味はなかったものの、学校では学べない現場のノウハウや社会人としてのresponsibilityを学ぶ。

1年半後、移民の許可が下り、再びバンクーバーへ。親に泣かれたが、本当に好きなことをしたいという情熱だけが、再び矢島さんをカナダに運んだ。ところが戻った途端、予期せぬ展開が…。
世界的評価も高いVancouver Film Schoolがscholarship studentを募集している情報が飛び込んできたのだ。「これはなかなかないチャンス!」とまたひらめく。デッドラインは2ヶ月後。就職活動から一転、毎日20点デザインを描いて応募した。「これでだめだったら、デザイナーはあきらめよう」と臨んだ発表の日。タイムリミットの4時まで待ったが電話はない。悔し泣きしていたところ、3時間たって電話が鳴った。他にも優秀な生徒がいて選考に時間がかかったが、共に合格という知らせだった。

かくして再び学生としての生活が始まった。1年間の時間をもらったと思い、余裕を持って一日目から就職を意識して取り組んだ。デザインの根本はもう学んでいる。ここではもっと深いところまで極めようと。
「きつかった。ここがあったから今は何でもできる」
デザイナーとしての幅もどんどん広がっていった。就職したい会社も絞っていた半年後、ウェブのプレゼンで、第一志望の会社のマネージャーから声をかけられる。そして卒業直前、校長から「ここに電話しなさい」と言われたのがその会社であった。3ヶ月後正社員となり、2年半がたち、今に至る。

初めてカナダの地を踏んで、もうすぐ10年。これまでを振り返って矢島さんは言う。
「すべての経験が今、生きている。自分でもよくやったなと思います。でもここまで来られたのは、努力に加え、turning pointに必ず誰かがいたからです」

やりたいことを仕事にできる人は多くない。ましてや、日本を離れてカナディアンと肩を並べて働くこともなかなか容易なことではない。
しかし、チャンスを引き寄せる力はきっとだれにでもある。遠回りをおそれず、周りに感謝しながら、自分の感性を信じて突き進んでいく勇気があれば。矢島さんの生きざまが何よりそれを物語っている。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home